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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
伊藤政彦 (우송정보대학교)
저널정보
한국일본문화학회 일본문화학보 日本文化學報 第 40輯
발행연도
2009.2
수록면
407 - 426 (20page)

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本稿では鬱陵島に?する記?上の初見、またはその前後の時期の文?における韓?と日本の同島に?する認識について考察した。韓?の文?のうちまず『三?史記』には6世紀初頭に「方一百里」の疆域を持つ于山?が鬱陵島に存在しており、異斯夫の計略により512年6月に降伏、以後年ごとにその地の産物を貢上するようになった。于山?の人?は「悍」ではあるが「愚」であった、との認識が表れている。次に『三?遺事』には于陵島(羽陵島)は阿瑟羅州(溟州)の東の海中、順風なら二日程かかる所にあり、その周廻は26,730?である。于陵島の人?は新羅の東の島に住む「夷」であり、于陵島の人?は海の水深が深いことを恃み、驕慢で臣?しようとしなかった。彼ら「島夷」は「驕傲」ではあるが「愚」であり、結局は伊飡朴伊宗の木製獅子を恐れて降伏した、との認識がうかがえる。そしてこれらの記?に見える鬱陵島(于山?)に?する派兵は新羅の世界?、すなわち自?をその?を慕って四方の周??が?服してくる天下の中心と見る思想と?連していると考えることができる。
一方『?記』『本朝麗藻』『公任集』『?衣物語』などの日本の11世紀の文?に見える鬱陵島および鬱陵島人に?する認識は以下の通りである。11世紀初頭に因幡の?に漂着した「于陵嶋人」11人は、日本人とは風俗の異なる新羅或いは高麗の外?人であり、日本語を話すことができなかった。彼らは天皇の詔書により??を許されたため「皇恩」に感謝している、またはそうあるべき存在であると思われていた。彼ら一行の中には詩を解する者がおり、その交流は人間的に惜別の情を起こさせるものであった。
結局、韓?の文?は鬱陵島を6世紀に明確に自らの版?に編入されたものと認識している一方で、日本の文?は鬱陵島(于陵嶋、うるまの島)および鬱陵島人をそれぞれ言語風俗の異なる外?、外?人とみなし、そこに住む人?は日本語を解さぬ言語の通じない外?人と考えていたことがわかる。鬱陵島は古くから韓日??の人?の交?の舞台となり、時には領土紛?の?象ともなったが、??の鬱陵島に?する認識の起源はこのようなものであった。

목차

はじめに
1. 韓?の鬱陵島認識
2. 日本の鬱陵島認識
おわりに
【?考文?】
要旨

참고문헌 (24)

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