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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
서동주 (이화여자대학교)
저널정보
한국일어일문학회 일어일문학연구 일어일문학연구 제96권 제2호
발행연도
2016.2
수록면
209 - 226 (18page)

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1930年代の日本文壇に起きた重要な変化は、植民地出身の作家たちが新しい創作の主体として登場したことである。そうした動きは、張赫宙のような朝鮮人作家に限ったことではなかった。台湾出身の作家志望者たちもたゆまず日本文壇への参入を試みた。1933年3月、当時東京に留学していた台湾人青年たちは「台湾芸術研究会」を結成、機関紙として日本語雑誌『フォルモサ』を創刊した。やがて張赫宙の登場に刺激された多くの台湾の文学青年たちも日本文壇に姿を現すようになった。1934年10月、日本の文芸雑誌『文学評論』に楊逵(1905-1985)の「新聞配達夫」という小説が掲載された。これは日本で発行される文芸雑誌に掲載された、最初の台湾人の小説である。続けて『文学評論』1935年1月号には呂赫若(1914-1950)の小説「牛車」が載せられ、遂に1937年には、張赫宙の日本文壇参入の契機となった『改造』懸賞に龍瑛宗(1911-1999)が「パパイヤのある街」という小説で当選した。当時「植民地文学」と呼ばれたこうした小説は、近代的な文学を志向する植民地の文学青年の欲望と、新しい文学的素材を通じて出版市場の活路を切り開こうとしていた日本の文壇ジャーナリズムとが互いに影響し合った結果生まれたものであった。しかし注意すべきは、だからといって「植民地日本語文学」が登場して一つの「ジャンル」として定着する過程において両者が「対等な」同伴関係にあったわけではないということである。当然ながら「入賞および文壇デビュー」の決定権は日本文壇と文芸ジャーナリズムの方にあった。「台湾的なもの」を意識的に強調した楊逵と呂赫若の「選択」は、逆説的に彼らの文学活動が植民地的素材に興味を示していた当時の日本文壇の動向に囚われすぎていたことを示唆している。要するに1930年代における植民地出身者たちの日本語文学は「強制」の産物でもなければ、逆に植民地出身の作家たちと日本の文壇ジャーナリズムとの間の対等な「連合」の結実でもなかった。そのなかで日本語と日本文壇の存在はすでに植民地の作家たちには「権力」として働いていたのであり、彼らのスタンスは日本文壇の「植民地支部」に近いものであった。その点において、「植民地日本語文学」は1930年代文学の領域において展開された、帝国の植民地に対する文化支配の様相を露わにしている。

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