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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
이규배 (탐라대학교)
저널정보
동아시아일본학회 일본문화연구 日本文化硏究 第38輯
발행연도
2011.4
수록면
425 - 449 (25page)

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濟州島が軍事的要衝として注目されたのは、講和交?期に入ってのことである。豊臣秀吉は、平壤城からの退却や南海岸での制海?の喪失などにより、1593年7月に南海岸を?由する侵犯路を諦め、濟州島を全羅道侵犯の迂廻經路にしようとした。明?も、戰況が小康狀態に入る1593年10月以後になると、濟州島が「倭賊の補給路」の遮斷は勿論のこと、日本攻略ができる重要な地政學的據点として認識するに至っており、朝鮮朝廷でもこの時点で初めて濟州島の地政?的位相に?して議論することになる。?ち、講和交涉の開始から破綻に至る1593年~1596年の間、濟州島は、日本では山東半島と遼東の一?を攻略するための據點として、明?では日本を牽制し攻略できる據點として注目を浴びており、また朝鮮朝廷でも李舜臣に「濟州を?援せよ」と下達するほど、その地政?的な?値に注目するに至る。慶長の役の時にも、濟州島をめぐる三?の認識には、なんら?りはなく、豊臣秀吉は、1597年6月~7月の間に、「濟州島攻擊」を下達することによって、濟州攻略が本格的な?略の一つとして位置づけられるようになる。しかし、日本は鳴梁海戰にて大敗し、濟州攻略が不可能な?況に?る。一方、明?では、濟州島が日本の掌握するところになると、「敵船が海上を自由に行き?できる」事態を憂い、電擊的に朝鮮出兵を決定したのも、濟州島の地政?的認識に基づくものであった。朝鮮朝廷で、濟州牧使や判官は「武官を派遣すべし」という主張が大勢をなしたのも、このためであった。結果的に、濟州攻防?には至らなかったものの、1593年の後半から終?に至るまで、濟州島は地政?的な位相により、??の當事?の注目を浴びた地域であったことが窺われる。ただし、朝鮮は、濟州島を專守防禦的な觀點から注目していたのに反して、明ㆍ日は攻擊的な據点としていたという明確な差異のあった?態が指摘できる。

목차

서론
제1장 임진왜란 초기의 제주인식
제2장 강화교섭기의 제주인식
제3장 정유재란기의 제주인식
결론
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