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저널정보
대구사학회 대구사학 대구사학 제117권
발행연도
2014.1
수록면
1 - 27 (27page)

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660年 7月 蘇定方の13萬大軍が 百濟白村江口へ上陸した. 唐軍は 新羅軍5萬と聯合して百濟を滅亡させた. 9月 蘇定方は 兵力大部分を引って 唐に撤收した. それと 百濟人たちが 大規模で抵抗した. 10月 百濟復興軍の指導者福信が 倭國に使臣を遣わして援助を要請した. 倭王は 要請を受け入れ 百濟に軍需物資を送るようにした。10月 18日 新羅の反擊があった. 新羅の攻擊が始まって, 百濟の20餘城が降伏した. 30日 百濟人1500名を殺した. 11月 5日 百濟の王興寺城が陷落されて, 700名が戰死した. 百濟復興軍が 窮地に追い付きました. しかさ 661年初から 百濟復興軍の戰力が 強くなった. 倭國の軍需物資支援が 大きな作用をした. 百濟人たちは 唐軍1千を全滅させて, 新羅軍が 周留城から敗北した. そうしたら 百濟の南方のいろんな城が 百濟復興軍に復屬したし, 福信は 乘勢に乗って熊津府城を包圍した. 661年 2月から 4月まで 百濟人たちは 新羅の主力軍團の大幢, 郎幢, 上州, 下州などを 擊破して 多くの被害を与えてくれた. 661年 7月, 蘇定方の唐軍が 高句麗の平壤城を包囲した. 新羅は この人たちに 補給するために軍隊を北上させた. しかし 倭國の支援を受けた 百濟たちは 彼らを止めさせた. 百濟地域の唐軍駐屯地の熊津府城が 危險だった. そのまま放置したら 唐軍は 全滅するはずだった. これを救援していて 平壤城を攻擊している唐軍に補給がたくさん遲滯された. 百濟駐屯唐軍の全滅を防ぐため 新羅は 百濟で 戦争をするべきだったし, 新羅補給部隊の平壤行は 662年 1月に 再開した. 661年 8月 倭王は前將軍阿曇比邏夫連などを送って百濟を援助した. 同時に重ねて武器と食糧を送った. 海路を通じた補給は 陸路より早くて多い物資を運搬出来た. 倭兵の百濟派兵が 本格化し始めた. 新羅の平壤補給は 失敗したし, 倭國の百濟補給は 成功的だった. 661年 12月 平壤城の蘇定方軍隊は危險に瀕していた。 662年 2月 新羅の補給部隊が 平壤に到着したが, 成功的なものにならなかった. 蘇定方は多くの兵士の屍身を残して 唐へ撤軍した.

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