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논문 기본 정보

자료유형
학술저널
저자정보
저널정보
중앙대학교 외국학연구소 외국학연구 외국학연구 제18호
발행연도
2011.1
수록면
319 - 338 (20page)

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本稿は日本語で書かれ、日本雑誌に出版された初期二作品『夏』,『福男伊』の主人公がなぜ朝鮮の奴僕であったのか、これによって得ようとした効果は何なのかを追求するところに目標を置くものである。『夏』,『福男伊』に先立って作家兪鎭午は知識人以外の「朝鮮的道義」を標榜する素材を探していたと見受けられた。そこで「朝鮮的道義」にふさわしい奴僕に着目し、既に『夏』に先立って1939年韓国語小説『秋』で奴僕を登場させていた。続く『夏』と『福男伊』の奴僕描写を通して兪鎭午は日帝の近代化により主人に追い出された奴僕たちの悲惨な境遇、つまり朝鮮の基層民衆の事情を反映していた。主人公たちは近代化された知識人ではない朝鮮の基層民衆であるからこそ、彼らの事情は一段と悲惨なものとして描かれることができた。このような朝鮮の悲惨な事情の中でも、朝鮮的道義を見せ付ける奴僕の存在こそが兪鎭午が日本の読者に見せたかった朝鮮の市井であったあろうと見受けられる。一方、『夏』の中の福童の場合、死で以て日帝及び権力に抵抗したが、福男伊は日常に応じたという差異がある。しかし、その現実受理は『汽車の中で』のような社会政治的性格ではなく、まして主人公福男伊が知的水準が低い人物であったという事実にも目を配る必要がある。福男伊は日帝による近代化に応じるが、その一方で知的水準が低い人物でない普通の朝鮮人が、朝鮮の現実を受理できないという現実受理不可性が作品の中に同時に暗示されているように見受けられる。

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