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학술저널
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저널정보
단국대학교 일본연구소 日本學硏究 日本學硏究 제37권
발행연도
2012.1
수록면
265 - 283 (19page)

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日羅は『日本書紀』敏達天皇一二年の記事にはじめてその名が見え、百済に渡った日本人官僚の子として登場する。紛糾する任那問題を解決すべく日本に招かれ、外交政策について朝廷に政策の助言を行ったが、百済の策略で暗殺されたとされる。この時、厩戸皇子、すなわち聖徳太子はまだ摂政には就任しておらず、『日本書紀』では両者の接点は一切記されていない。しかし、10世紀頃には原型ができあがっていた『聖徳太子伝暦』では、日羅が聖徳太子と出会ったという記事が現れる。ただしその内容は、『日本書紀』とは大きく異なっていた。聖徳太子が仏法流布に尽力すると日羅が暗示したというのだ。この『聖徳太子伝暦』の内容は、中世に編纂された『聖法輪蔵』で更に増幅され、日羅は高句麗の僧侶として登場するようになり、過去の因縁を通した二人の出会いが強調されるようになる。また、増補系太子伝の一つである『太子伝』でもこの傾向は続き、日羅殺害の原因までもが過去の因縁であると説明されるようになる。もはや『日本書紀』の原型はほとんど残されておらず、聖徳太子伝の規範であった『聖徳太子伝暦』の内容までどんどん変更されている。こうした事例から、聖徳太子伝の編纂は、先行文献を単純に踏襲されたのではなく、次々に新しい要素が加えられていたことがわかる。

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