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저널정보
중국사학회 중국사연구 중국사연구 제81호
발행연도
2012.1
수록면
197 - 223 (27page)

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本稿では、定林寺跡から出土した遺構と遺物を通して創建年代を推定し、その結果に基づいて百済と北朝との関係について検討した。定林寺跡の創建伽藍に用いられた塔は木塔であり、現在の五重石塔は、木塔の消失後の639-660年に建立されたことを従来の研究と弥勒寺跡から出土した遺物と比較検討することで推定した。最近の発掘調査によって明らかになった定林寺跡の伽藍配置は、陵山里寺跡(567), 王興寺跡(577), 帝釋寺跡(639년 燒失)を参考すれば、6世紀の第一四半期に比定できる。定林寺跡の塑造像の起源が中国の北朝にあることについて異見はなく、使用時期は、北朝と交流が活発に行われ始める567年以降であると考えられる。そして3種類の創建軒丸瓦の検討で得られてた編年も6世紀後半に属する。したがって、遺構と遺物の年代を総合してみれば、定林寺は577年以降の威德王代に創建されたと考えられる。威德王は、管山城戦闘の敗戦の責任を問われ、一時期窮地に追い込まれたこともあったものの、戦死した父王と、亡くなった王子の追福の為に、陵山里寺跡と王興寺を創建するほど失墜した王権を回復した。それに伴って、執権後半期ともいえる567年からは、対中関係も活発に行われ、特に、従来とは違った南朝より北朝と、より多くの交流を行った。北朝との本格的な交流が威德王代に始まったといえるほど、威德王は百済の歴代の王の中で、北朝に対し最も積極的な外交を広げた。このような外交政策の変化の背景には、国家の威信を高めるだけではなく、韓半島内の孤立から脱皮するとともに、高句麗を牽制しようとする政治的な目的があった。定林寺の木塔の中に、北朝系の塑造像を安置した目的もこれに関連する。国家的寺院であった定林寺の木塔に、北朝系の塑造像を安置することによって、南朝一辺倒政策から離れ、北朝と新しい関係を定立しようとする百濟の意図を標榜しようとしたのである。このような仏教を利用した友好関係を表した対外政策は、すでに南朝との交流の際に学習したものであった。

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